「この・・・山姥めッ」 そう吐き捨てた二十代中ごろの男は右手を失っていた。正確には二の腕より下が鋭利な刃物によって綺麗さっぱりと無くなっていた。 そして男は今全身をその背にある一本の大木に任せている。そのすぐ目の前には一つの死体があった。彼と同じ鎧を着た死体だった。 それだけではない。その男の周りという周りには、どこか一部が欠けて人間だったとは俄かに信じ難い死体達が転がっている。 ただ一人彼だけが肩を動かしていた。 辺りを静かな風が流れる。 山姥と呼ばれた、顔を布切れで隠し、得体の知れない動物の毛皮で作ったと思われる服を着ているその人間は、じっと男を見つめている。 布切れの間から覗くその瞳は冷たい。左手の紅く濁った長い刃を握り、ぼぅっと目の前の彼をみている。 半分頭が下がってきているその男は尚も鋭い目つきで山姥と呼んだ人間を睨んでいる。何とか意識を保っている、といった様子だった。 「早く、終らせろ。これ以上この俺の苦しむ姿をみて、どこが面白い・・・」 山姥と呼ばれた人間は暫し憮然とした表情で佇み、そうして前へ進み出た。左手を大きく振り上げる。 「・・・おっかあ・・・許せな・・・おら、なにも」 左手を大きく振り下ろした。彼の身長が一頭身分低くなった。 一国の武将が自分の領地内に巣くっている山姥を退治する為、三百の兵を動員したという噂はあっという間に各地へ広まった。 その結果退治に参加した全員が生きて帰ってこなかったと言うことも付け加えて。 その噂は現地や近隣の諸国に住む人々を震い上がらせ、旅商人によって遠国の人々の話しのタネになっていった。 彼らの言う山姥とは過去の出来事から由来する。それは、その昔京の都が東西に分かれお互い終わりのみえない戦をしていた頃、 とある山の奥の奥にあった、小さな村の寺に納められていた一本の刀が盗まれた。 犯人は当時山賊どもによって滅ぼされた村の生き残りだとか天下統一を狙う者の差し金だとか色々言われたが本当の所はわかっていない。 一説には物の怪の手に渡ったとも言われていた。 その盗まれた刀とは、他の刀に比べたらいささか短く見た目は地味だが、その本性は一人命を喰らうごとに己を振るう人間に一年分の余命を与え、 そうして使用者を不滅鬼と化す事で永遠に生き血を喰らおうとするおぞましい性質を持ち合わせている、いわゆる妖刀で、 神話の時代よりそれが納められていた箱は開封厳禁とされた業物。「滅界」という別名を有している程の極めて危険な代物の為、 名もごく一部の者にしか知られていないその村の禁忌とされ、代々寺の住職が命を賭けて守り通してきたモノだった。 名を五月雨といった。 その小さな村は五月雨を奪われた事により掟に従い全員自決。以後各地で不可解な惨殺体が相次いで見つかった事から それは全て五月雨を奪った者の仕業とされ今日まで言い伝えられてきたのだった。 無論事の顛末を綴った書物が過去存在していたが、それも先の混迷期に続き戦国の世に突入した事によりその行方はわからなくなった と言うことだった。 五月雨による目立った虐殺はここ数十年みられなかったが、 つい最近ある山で刀を腰に差した奇妙ないでたちの女がしばしば目撃された事と、 その山は一度足を踏み入れたら二度と帰って来れないという「黄泉の山」と言われた場所もあいまってその女が山姥と呼ばれだしたのだ。 その山を自国に持つ武将は頭を悩ませていた。人々にしてみれば半分嘘の混じった話であるが、 その武将はその昔、ある小さな村と妖刀の話を先々代より聞いた事があり、故にそうそう野放しにする事ができなかったからである。 そして現在のそれに関する噂は実は真実であるという事はすでに知っていた。 その武将だけでない。各国の武将達がそれを自国の最も重い秘め事として それはそれは内密に隠していた。目的は勿論無駄な騒ぎを起こしたくなかったからだ。 そんな事もあって頭を抱えているその国の武将は、自軍の兵力を三百程割いて討伐に向かわせてみたのだった。 が、結果は先の噂の通りだった。 国では飽き足らず島をも滅ぼす呪われた刀、五月雨。それは現に存在し、そして今まさにその脅威が自分の納むる土地にある。 ――そんな脅威に太刀打ちできる人間などこの世には居らん。ワシ達凡人にできるのはただそれが気まぐれを起こし、 殺しに飽きてくれる事を仏様に願う。ただそれのみじゃ―― そう先々代が語った言葉を、悲劇の武将は歯を噛み締めて思い出していた。 彼女は今、山の中腹にある湧き水によってできた小さな泉に浸かっていた。 水といっても冷たくはない。山の地熱で暖められた温水が湧き出ている。よく猿などがそこで集まったりする。 森は今日も静かで騒がしい。風のつくる音。鳥達のつくる音。すぐそばの水の音。どれもが耳に心地良く響く。 今日はいい天気だ。彼女はつぶやく。そしてゆっくりと右手で肩を流した。 彼女にとってこの一時だけは何よりの楽しみだった。 ちょうどその頃、一人の情けない顔をしている男が走っていた。 歳は二十歳前後、その格好から誰が見ても百姓だとわかる。彼の後ろにはこれまた男が三人、ギラりと光る刃を片手に走っている。 その三人の男はどうやら山賊の類らしく、明らかに武士とはかけ離れた出で立ちをしていた。一人は黒い眼帯をしている。 彼らは深い森の中を駆け巡っていた。それもひたすら奥へ奥へとなだらかとはいえない斜面を上りながら。 「こるぁ!待たんかい!!」 山賊と思われる男達の中で先頭の一人が吠える。後の二人も続いて罵声を情けない顔の男に浴びせる。 「おのれこのまま逃げ切れると思たら大間違いやぞ!!ごらぁ!」 「親分に恥じかかせやがって、絶対に許さんからのう!」 そうこうしているうちに段々と一人と三人の間が縮まってきた。前を走る一人の速度が急に落ちたからだ。 「か、勘弁…」 口から変な音を出して呼吸をしている情けない顔の男は、搾り出すように声を発した。 場面は彼女の元へと戻る。 長い時間が経過して身体がすでに芯まで温まっていた彼女は、恍惚の表情でまだ泉に浸かっていた。 その日初めて湯に足を入れたのが確かまだ太陽が昇りきっていない頃で、現在はもう頂上から反対側へ傾きかけている。 腕を出し後ろの岸にもたれかかっているその様には、まさに「極楽じゃ」という言葉が相応しい。しかしそれは彼女の容姿を考えると とても可笑しな風景にみえる。――そう、彼女はどこをどうみても若くて美しい娘なのだ。長い黒髪を湯に浸し、少しふくよかな顔つきで微かに微笑む。 横に細い目は、凛として潤いを浴びている。 体格は肩から上しかわからないが、おそらくは華奢だと思われる。 年齢は二十歳ほど。容姿端麗という言葉をそのまま当てはめても差し支えは無い。ここまで言えばもう十分だろう。 ただ彼女は歳のわりには老けている。それだけは確かだ。 鮮やかな緑が急に落ち着きを無くし始めたのがそれから数十分の事だった。小鳥達までもが何かを思い出したかのように 木々を離れて行く。 彼女は、自分の最も楽しみとしている時間を邪魔される事以外は、さして気にも留めないらしい。その眉が微妙につりあがった。 鬼ごっこの終わりは近かった。 先頭を走る情けない顔の男はもうほとんど足が言う事をきかなくなっていた。全身に圧し掛かる酷い疲労感。腿に走る鋭い痛み。 それらは彼の様子から容易に想像できた。後方の男達はだてに山賊をやってないらしく、辛うじてまだ元気だ。 あと数歩で山賊達の刀は男の背中を切り開ける所まで迫っていた。それを耳で感じて男の顔に諦めの色が混ざる。 だがそれでも男は諦めなかった。今まで比較的通りやすい道を選んで逃げてきたが、後ろを一瞥するや急に深い茂みに飛び込んだ。 山賊達も不意をつかれたがそれに続く。 行く手を低木の木々や草が遮る。それらの中には鋭い葉をもって人間を切りつける草もあった。 顔や腕、腿から血を流しつつ四人の男はひたすら走る。間の距離は若干だが伸びた。 男は眼前に違和感を感じたのかすでに崩れている顔の眉をさらにひそめた。何か今の状況とは違う何かを感じたらしい。 茂みを抜けた瞬間、急に男の眼前が開けた。泉が見えて、次に女が見えた。男はへたり込むのと驚きを顔に出すのとを同時に行った。 その女は何事も無いようにのんびりしている。その女の後ろに服と重石にしている鞘に納まった刀がみえた。 女と視線が合う。二人の時が一瞬止まった。 がさがさと草をかき分ける音がして三人の男が飛び出した。それをみて女の顔が若干強ばる。 「や・・っと、かん・・・ねんした・・・か・・・。よし、そこで・・・ハァ、ハァ・・・おとなしく・・・」 黒い眼帯の男が息を整えながら、ゆっくりと刀を振りかざす。 それをみて女は泉からあがった。一見仏頂面だがどこか恐ろしい。 三人の男が目を点にする。女は構わず刀を手にする。 三人の視線をたどってへたり込んでいた男も女をみやる。そしてやはり、目を点にした。 女は目の前の何かを言いたくて喉まででかかっている様子の男達のうち、三人を見据えて静かに刃を抜いた。 「お、おまえ!?」黒い眼帯の男がとっさに振りかざしていた刃を正面に戻す。女は構わず横に払う。 あっ、と小さい声を黒い眼帯の男が漏らすのとその男の刀が左にはじき飛ぶのと右斜め上からそれとは違う刃が迫るのとがほぼ同時に起きた。 「お、おかしら・・・」 そう呟いた後ろの男二人もすぐに首を失った。三秒もかからなかった。 しりもちをついている凛々しい顔つきの男は汗が止まっていなかった。だが視線は一点に定まっている。 その視線を感じて女は、 「・・・・・・・・・」 特に何も言わなかった。振り返り鋭い目で男を見下ろしている。 身の危険を感じた男はすぐさまその場から逃げようとしたが、足がどうやら上手く動かないらしく変にあたふたしていた。 女は男へ近づいて、男は驚愕の表情を顔に出し、そのまま女は脇を素通りして、服を着た。 「へ?」男は拍子抜けする。 女は最後に髪を後ろにまとめてその場を立ち去ろうとした。慌てて男が、 「あ、ちょ、ちょっと、待ってくれ」 呼び止める。女は気にせず歩き続ける。そうしてそのまま姿を消した。 すると、呆然とした一人の男が、やがてまた静かになった森に寝転がった。 夕暮れも過ぎ、また夜が来た。 昨日と変らぬ、また明日も変らぬだろうこの闇の輪廻。一体いつになったら彼女はその永劫の苦しみから逃れられるのだろうか。 ある一瞬を境に人で無き者へと成り下がった彼女にしてみれば、この廻り来る闇はもはや「我」を隠す唯一の世界であった。 自らを餓鬼と罵ったあの時以来、己の穢れをそれに紛らせ彼女はだた孤独を願う。来たるべきその最後の時まで。 ――ふと天を見上げる。凛然と輝く月。それはまるで鎌かなにかで不気味なほど両端は鋭い。 私は想像する。それがここまで飛んできて、やがて彼女の首を刎ねるその様を。 だがそれでも彼女は救われない。ふと我に返り腰を下ろして彼女を見つめる。 火を焚き、拳ほどの石で周りを囲み、ふもとの川で釣った魚を焼いて食っている。相変わらず不味そうに食いおる。少しは笑えんのか。 そこまで考えてまた最初の思考に戻ってしまった。すなわち彼女にはまだまだ天は遠い。まして今日も致しかたなかったとはいえ、幾人もの魂を切り捨ててしまったのだ。 ゆえに彼女の受難はいっそう続く事になる。なんと哀れな娘なのだろうか。私も見ていて気が滅入る。 ――そこまで考えてまたはっと我に返り彼女をみやる。 どうやら寝入ってしまったようだ。自ら木々の葉や草でこしらえた敷布団で横になり、静かな寝息をたてている。 やれやれ、これでようやく私も床につけるというものだ。しかし今日は珍しく面白い一日であったな。 彼女が寝起きを足軽どもに奇襲されだと思えば、どこからどう迷い込んだのか天の者がそれに遭遇しおったり、 彼女が身を清めているとまた天の者が今度は汗臭い男四人ととも参上しおったりな。 ――不意に顔が綻ぶ。だが、私はすぐに目をひそめた。 あの中の三人は不幸といえば不幸か…。何せ彼女の最も忌み嫌う山賊の類であったからな…。はちあわせたのが奴らの運のつきだ。 しかし未だに彼女のその怨念は消えておらんのか。ここ十年は出会っとらんからてっきりその念は失せたものだと思っていたが。 ――私もそろそろ休む事にした。明日もまた早い。身を樹に預け、腕を組んだ。 そうしてまた奇襲されん事を願って私はその身を休ませた。 TOP/次へ |