凛々しい顔つきをした若い男は今日も鍬を片手にせっせと農作業に勤しんでいた。


だがどこかやる気が感じられない。それはやはり数日前に起こった事に起因している。


「女…」男はあれ以来ずっとこの調子だ。


その瞳は遠く中空をさまよい、打ち込む鍬もあちらこちらを掘り返している。鳶の声も今の彼には届かない。


 その姿を見つめる一人の幼い少女が居た。歳は十代前半。黒髪を肩の付近でなびかせ、両肘をついて座っている。


 彼女は、これもまた同じく数日前に起因するのだが、その男に一度助けられたのだ。


 彼女が熱で苦しんでいる母親のために野山に入り薬草を探していた時、三人の野武士に襲われた。


その男達は汚い笑みを浮かべ、彼女の自由を奪った。彼女なりに必死の抵抗はした。だが子供と大人ではあまりに力の差が大きかった。


今まさにと言う所で、そう、その凛々しい男が石を投げて野武士たちの注意を逸らしてくれたのだった。


 それだけではない。やけに彫りの深いその若い男は、次々と野武士達を挑発し見事彼女から離れさせたのだ。


だがその代わりに今度は若い男が野武士達に追われることになってしまったが。


 少女はその後ずっと男の身を案じていた。自力で村に帰った後もずっと。ゆえに今の彼をこうして眺めていた。


 少女は礼が言いたかった。結局母親は助けられなかったが、あの時の彼女は無謀を承知で山に入ったのだ。


一度足を踏み入れた者は二度と帰っては来れないという「黄泉の山」に誰にも言わずたった一人で入ったのだ。


そんな自分を命を危険にさらしてまで救ってくれた彼。どうしても礼が言いたい。でも帰ってきてからの彼は何か変だ。


どこか近寄りづらい。もしかしてお化けか何かにでもとり憑かれたのかも。そんな思いが彼女を支配していた。


 男は畑の半分を耕し終えた所で急に鍬を置き捨て、何事かぶつぶつ言いながら藁葺きの家に戻った。


少女は訝しげにその様子をみている。しばらくして男が家から飛び出し、慌てて村から駆けてく。少女も慌てて後を追った。





 武将はある決断をした。いくら悩んでも良い解決策が見当たらない。ならば、あまり信じられるものではないが家臣が集めてきた


情報の中のある手段を用いようと。そしてついでにもう一つの悩みの種だったあいつらも一緒に始末してしまおう、と。





 彼女は今日もまた泉に浸かっている。ここへ来て数日もしないうちに偶然見つけたとはいえよくもまあ飽きずにこう毎日浸かるものだ。


 今日も森は静かで美しい。相変わらず風は木々を優しく撫で、陽光が柔らかに緑を包む。


何億と繰り返してきたこの一日を彼女はまだ好いているのだろうか。いや、そんなはずは無いな。今の彼女はただ終焉を願っているのだから。


――祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す、奢れる人も久しからず、ただ春の世の夢の如し、


猛き者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ――


 遠い昔、私の住んでいた村に訪れた法師が謡っておったな…。名はたしか……忘れてしまった。


ふっ、その謡を聴いた時はさながらこの世の真実を得たかのような錯覚に陥ったが、今ではどうだ、その例外が山ほど居るではないか。


天より舞い降りたる御仏や地獄より出でたるおぞましい物の怪どもの加護を受け、この世をのうのうと生き永らえている者達。


今はまだ表に出ているのはほんの一部に過ぎないが、それをいい事に身勝手な天下取りを繰り返し、善き者達を殺しに巻き込む。


つくづく人間とは浅ましく、また卑しい存在だと痛感する。目の前の彼女もそうだ。そして私も……。


 贖えるのなら贖おう――自らの犯した罪の意識にさいなまれ、連日連夜食も取らず、寝もせず、ただただ怯え惑っていたその弱き心を、


結局物の怪につけこまれ、上辺だけの美意識に酔いしれた私は、あの呪わしき妖刀を世に出してしまった。


 今思い出しても寒気がする。だから私はせめてこの娘だけは闇の手に堕ちぬよう守っているのだ。彼女の妖刀は持しているだけで闇に汚される。


永久不滅の殺戮鬼。そんな存在を物の怪どもがほって置くわけが無い。私は彼女の守護者だ。


 また森が騒がしくなった。どうもここは落ち着きが無いらしい。





 「見つけた」男の瞳がはずんだ。


数日前と同じく泉に浸かる若い女。後ろ髪を湯に浸し、くつろいでいるその様はこの世のものとは思えないほど艶かしい。


草陰からじっとその様子を見つめる一人の若い男。今の彼は誰にも止められない。


男は息をのんだ。そして明日も明後日もこの場所に来る事を誓った。もちろん自分に、だ。


 女はこちらに気付いていないのか、ときおり歌を口ずさむ。それは若者にとっては聴き覚えのない歌だったが、


何処か懐かしい、まるで自分の童心へ帰してくれるような、そんな歌だった。


 なんてぇ歌だ、男は疑問に思いつつも歌に耳を傾ける。さわやかな五月晴れにの中、いつまでもいつまでもこうしていたかった。





だが悲劇はそれを許しはしなかった。山のふもとと山の中腹。両方で事態は進行していた。





 まずは山のふもと。風がやや東だったのと近くの村への被害が最小限になるだろうということで武将一行は山の東側に集結した。


何百という兵がそれぞれ手元に火を持している。そして出来る限り横へ広がった。準備は万全。いつでも山姥を火あぶりにする用意は出来ていた。


――いくら物の怪の力を有していても地獄の業火にはさしのも山姥もかないますまい――


武将は自分の家臣が述べた言葉を繰り返し思い出した。その男は家臣の中でも有能で信頼できる男だったが、


それでも武将にとってあの山姥がそれで息絶えるとは俄かに信じ難い。

だがそれでも他に有効と思える手段は無かったのだ。武将はそう言い聞かせて重い口を開く。


「皆の者、一斉に火を放て!!」


 それに呼応して火をまとった矢がまず音をたてて宙を駆ける。第一波、第二波……。その間に足軽が地に根を張る草を燃やしていく。


それは風に乗り、最初は徐々に、やがて激しく勢いを増し次々と緑を覆っていった。近くにいた兵達があまりの熱気にやむなく後退するほどだった。


 武将は願う。ここまでしたのだ、最悪どこかの国へ逃げるだけでもいい、とにかくこの土地から消えうせてくれ、と。


 そんな武将の様子をみて、その後ろで静かにほくそ笑む男が一人褐色の馬にまたがっていた。



 実際、雫が事の異変に気付いたのは陽が傾きかけた頃だった。その時彼女は裸の自分を覗きに来ている不愉快な男をどうしたものかと湯に浸かりながら考えていた。




――いつもと違う何か違和感のようなもの――



 漠然と思考を巡らせていた彼女の脳裏にそれが過ぎった。普通は気付かない、本当にちょっとしたわだかまり。


 これとは別に彼女はある違和感……というよりか不穏を日常感じていた。何かに観られている。そんなえも言われぬ不快感。


今でこそ馴れはしたが、その不快感を感じ始めた当初は捨てたはずの恐怖を俄かに感ぜずにはいられなかった。


 だが今回感じたのは別に恐れでも何でもない。ただ徐々にそのわだかまりが脳から胸へと波及して、嫌な胸騒ぎを引き起こしているのは確かだった。


 それに連動するかの如く彼女は湯からあがり、するりと着物を着て、その長い髪を後ろ手に纏め、腰差しにしては少し長い刀を左手に、覗き男の方向へ脱兎の如く駆け出した。


当然驚くのは彼女を覗いていた男だ。彼はその目で見た一連の動作を瞬時に脳で解釈しようとした。が、悲しいかな人の脳はあまりに連続性の無い事柄にはほとほと弱い。


特に彼は一種の特異状態に陥っていたのだ。なおさら無理も無い。一瞬気の抜けた声を発し彼は硬直した。


 雫はそんなモノは当然の如く無視をして、山を駆け下りる。まだ幾月も住んでいない山であったが彼女にとってみればもう我が家同然であった。


故に一里の約半分ほどを駆け、その途中五回ほど跳躍をすれば普通に下山するよりかなり速く裾野に到着できた。


 何かある。そう感ぜずにはいられない雫は足を速める。過去何百年も生きてきた彼女が初めて感じた感覚。


それを確かめたくて今の雫は動いている。ちょうど小鳥達が騒ぎ始めていたのも何か関係しているのか、と彼女は思っていた。


 その原因は意外とあっけない形で姿を表した。女の幼子が一人、一つだけ大きな岩の下で息絶えていた。


頭をその岩に預けつつ、髪は乱れ、服は無造作な状態でその横にあった。歳は九つか十。後頭部と岩肌がべっとり血で濡れていた。


雫はその亡骸に近寄る。状況からみても暴漢に襲われたとしか考えられない。雫のわだかまりが幼子の死に対する衝撃と悲しみ、そして嘆きを経て鮮明化していく。


 目を見開き、口元をわなわなと震わせ、雫ははっきりと心の内に火が起きた事を感じた。やがてそれは徐々に広がり始め、彼女全体を支配していく。


 また脳裏に何かが過ぎった。今度のそれは一層不快感を増していて、耐え難いものであった。雫は一刻も早くこの酷くどす黒い感情を晴らしてしまいたかった。


 だから雫はその感情に身を任せた。彼女の体がおぞましい衝動に駆られてまた山頂へと動き出す。視点は一点、フカイの方向。





 山はいよいよ紅く染まってきた。ふもとの火は周辺の緑を食いつくし、まるで逆向きの荒波のようだった。





 間もなくして雫はフカイを発見した。それは五つあった。


 それらは雫の駆ける足跡に気付くまでのうのうと山道を歩いていた。


「へっ、あのガキ……俺の番までに死にやがって。胸くそ悪い……」


それにべつのフカイが言葉をかける。


「まあ落ち着け。さっきのはあのガキが勝手に下手して死んだんだ。お前は運が悪かっただけよ」


「じゃかぁしい!そうなったのもお前が乱暴にするからだろうが!」


「なんだと、この」


「やんのかてめぇ」


そんなやり取りを見て残りのフカイはげらげら笑っていた。その光景が雫にとって最後の起爆剤になった。一気に顔が怒りで歪む。


 フカイは何かが迫ってくる事に気付き順次振り返った。全員、鬼が来た、と思った。


 雫はその間にも間合いを詰めまず一番後方にいたフカイに迫り寄った。慌てて腰に手をやるそのフカイ。だがときすでに遅し。


左手より抜刀された刃が斜めに大きく振りかぶられ凄まじい速さで移動しフカイを一つ消した。


 後の四つは辛うじて刃を取り出す事に成功した。雫の近くにいたそのうちの一人が彼女に切りかかった。それに呼応して残りも切りかかる。


雫は二本の刀を綺麗にさばきまた一つフカイを消す。そして休むまもなくまた刀をさばく。


 フカイ達は外見からは想像できない太刀筋の力強さとしなやかさに驚愕しつつも、数の強みで彼女を追い詰めていく。


雫は一瞬一本の刃に気を取られてしまった。その刹那、背中におおきな一撃が走る。


 苦痛を短く声に出した雫に残りの二本が追い討ちをかけた。無残に切られゆく雫の身体。彼女は計五回切り刻まれた。


 地に倒れ微動だにしなくなったその身体を見ながら三つのフカイは息を荒立てていた。何が起こったのかわからない、それが今の本音だった。


今はもう息は無いがさっきまで喧嘩していた仲間の下へ集まる。そうして口々に悲観していった。


 そんなフカイ達にさきほどようやくの思いで切り捨てた鬼がゆっくりと立ち上がりゆく故を知る由は無かった。


それは静かに忍び寄り、一つの首を撥ねた。残りのフカイは二つだったが、二つとも驚きをあらわにした。鬼はまるで積年の恨みを晴らすが如く、一撃を両方に放った。




ふもとの村ではすでに退避は完了していた。だが、村の人員が明らかに二人欠けていたので皆が一様に不安を募らせていた。


二人が何処へ行ったのかも村に住むある中年の女性が知っていた。何故なら村から唯一黄泉の山へと続く道の方へ走っていった二人の最後の姿を見たからだ。


 村のある一人の男は今すぐ捜しにいくべきだと主張したが、誰も轟々と燃え盛る山へ入ろうとする者はいなかった。


 村人達はただ死にゆく山を見続けるしかなかった。





 山は三日三晩燃え続け四日目の朝にようやく鎮火した。その後村人達による行方不明になっている二人に捜索が行われた。


その結果様々な獣の燃えカスの中で、人間の男と思われるごつい骨が多数と子供と思われるちいさな骨が一人分みつかった。


村人は鎮痛の思いをする一方、ごつい骨達の中に明らかに不自然なモノがあった事に眉をしかめた。それは右腕が綺麗に無かったり、


胴が二つにわかれていたり、首が撥ねられていたりしていたからだ。


 この事は山姥の祟りだとか黄泉の山の呪いなどと一時期村やその国、また周囲の国に住む人間達を騒然とさせた。


またその顛末を記した書物も幾つか書かれたがそれらは結局戦乱の炎に消されていった。


 それに加えてあれほど頭を悩ましていた武将は己の家臣による内通とそれに伴った自国を囲う天然城壁のうちの一つの焼失によりあっけなく最期を迎えた。


 覗きを働いたあの男はというと山火事以来その消息はわかっていない。


当時の村の見解では発見された骨のなかに男の骨が混じっているのだろうということで落ち着いたがそれも実の所定かではない。


そして一五九〇年、豊臣秀吉が全国統一を成した頃には皆の関心はすっかり別の所へいってしまい、以後山姥の話は少数のみのしる所となっていった。




この話はちょうど日本が戦乱の世にさしかかった頃からそれが終るまでの間に起こり、後世の記憶にも残らなかった、ある一つの伝説を描いたモノである。




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